HISTORY
●ハワイでアパレル業界の布石を創り上げたデザイナー●アルフレッド・シャヒーン
アルフレッド·シャヒーンは、第二次世界大戦後のファッション業界において、全盛期で最も創造的で多作なハワイを拠点とするアパレルメーカーでした。
シャヒーンは、ハワイという離島による制限を超えて作品を創出し、ハワイにおいて非常に重要なアパレル製造メーカーのビジネスモデルを構築してきました。ハワイが米国に加盟する直前のハワイは、経済発展においても重要な時期でした。シャヒーンは、ハワイのデザインを起用した洗練されたテキスタイル印刷、衣服製造、小売会社を手掛け、それまでのハワイには全く存在していなかったアパレル製造業というジャンルをハワイにおいて確立します。
シャヒーンのビジョン、創意、輝かしい技術力、そして信頼性と卓越性へのコミットメントを通じてビジネスにおいても偉業を成し遂げます。 その結果、ハワイ州の経済発展に多大なる貢献をしたとして、2001年7月、アルフレッド·シャヒーンはハワイの特別功労賞を受賞しました。 2006年7月には、ハワイ最大の新聞誌ホノルル·アドバタイザーで、1856年から当時に至るまでハワイにおいて社会的、経済的、政治的、そして文化的な変化に最も影響を与えた150人の一人に選出されました。
<当時の記事:ホノルル・アドバタイザー(英語)>
生い立ち
アルフレッド·シャヒーンの両親、メアリーとジョージは、1930年代後期に米国ニュージャージー州からオアフ島に移住し、元々営んでいた家業であるテキスタイル製造業をスタートします。アルフレッドは、カリフォルニアのウィッティアー·カレッジで数学、物理学、および航空技術を習得。その後第二次世界大戦が始まった時には陸軍航空隊に入隊し、ヨーロッパで任務に就き、イタリア、フランス、ドイツで85の部隊を仕切っていました。
戦争が終わった後、アルフレッドはオアフ島に両親、家族の元に戻り、家業を手伝い始めます。
事業家として
家業を手伝う中でアルフレッド·シャヒーンは、ハワイならでわのアパレル、アロハシャツと女性のドレスをデザイン、製造し、ビジネスを拡大したいと思い始めます。そして1948年、ホノルルのカラカウア・アベニューに母の元で鍛錬を受けた4人のお針子さんを引き連れて、自分の会社を始めます。
当時ハワイに存在していた服飾メーカーのほとんどが、米国本土から生地を買い付けアロハシャツ、サンドレスなどを製造しており、当然シャヒーンも当初は本土から生地を仕入れてアロハウェアを作り始めます。しかしこれら既製品の生地は、お客さんに販売できるクオリティのものではなかったため、彼は永続的に自分のビジネスを続けるために自らの手でファブリックを製造すべきだと実感します。
そして、ホノルル校外にあるプレハブを借り、Surf'n Sand ブランドを立ち上げ、ここで製造される服飾の全てをハワイでハンドプリント(手染)製造された生地から作ることを決意します。
2人の地元の労働者と共に、シャヒーンは製造機を作ることから着手しました。
1950年までに、シャヒーンは製造機の設計者と共に、印刷機、染め機、仕上げプレスの一連の生地製造に必要な機械を創り上げました。さらに1952年までには、Surf'n Sandのハンドプリントブランド専用に、1か月間に6万ヤード(約54000m)の生地を製造するまでに至りました。
1956年、シャヒーンは800万ドルを投じて工場、ショールーム、オフィスを併設した複合ビルを建設し、1959年の段階で400人の従業員を雇い、世界に向けて衣類を販売していました。ハワイに直営の小売ショップも何店舗か持っており、年間400万ドル以上を売り上げていました。
シャヒーンのビジネスにおける成功は、まぎれもなくオリジナルのファブリックをデザイン、製造し、そこから既製服を作る、というビジネスモデルを構築したからにほかなりません。
アルフレッド·シャヒーンのテキスタイル・デザインやファブリックはハワイだけでなく、南太平洋、アジアにおいても人気が上昇し、ビジネスモデルとしてもシャヒーンの後を追随する企業が1950年代数多く登場し、ハワイにおいてアロハシャツ産業を確立するきっかけとなりました。
シャヒーンは、太平洋諸国の文化や歴史に関連づけられるネイティブのデザインを自ら学び、それらをテキスタイルデザインに多く適用していきました。代表的なファブリックにPua LaniやPareau、Antique Taka、Joss Sticksなどのハンドプリントデザインがあります。
シャヒーンのテキスタイルデザインにおける哲学は、私たちが持つ民族多様性を祝福し、芸術性にも優れた作品を創出することに忠実であり続けることでした。
シャヒーンは、ファブリックを大量生産するためにシルクスクリーンによるテキスタイル・デザインによる製造方法を設計し、アパレル産業に新たな縫製と生産技術を導入しました。社員に対する研修や技術の伝授にも熱心に取り組み、シャヒーンと彼の母親メアリーはデザインアーティスト、印刷技術、クリーナー、裁縫、およびモデルに至るまで社内で教育を施してきました。
シャヒーンの元で高度な訓練を受けた社員たちは、卓越した技術職人としてのアルフレッド·シャヒーンのテキスタイル・デザインを直属に継承し、1950年代から1960年代のハワイで最大のアロハウェア製造メーカーとして成長してきました。これらの専門職人たちは、シャヒーンの元で培った知識と技術を持って、最終的にその後のハワイアパレル産業の発展に大きく貢献していくことになります。
シャヒーンの成功の裏には、多くの才能ある人々が存在していました。その中でも彼の母親メアリーは、献身的な愛、指導、強さ、そして驚くべき芸術的才能の全てをシャヒーンに捧げてきました。さらに、親しい友人エドモンド・ラッツ博士は頭髪染料の科学者であり権威として、シャヒーンのハンドプリント技術の構築に大きくその技術を貢献しました。
美しいセンスを持ったテキスタイル・デザイナー、ロバート・サトウやリチャード・グッドウィンらは、シャヒーンの膨大な独特の染色ラインアップを一気に引き受けていました。
そして、創出されたドレスをさらに優雅に人々を惹きつける魅力で着こなしていたファッションモデルのビバリー・ノアなど、多くの才能あふれる職人たちと共に、シャヒーンはハワイにおけるアパレル業界の先駆者としてその名を不動のものに築き上げていきました。
一代でビジネスは終焉
アルフレッド·シャヒーンは、1948年に起業してから40年間ビジネスの一線で活躍しました。世界的にもその名を知られたシャヒーンでしたが、オアフ島の元々両親が暮らしていた家の敷地近くに工場と事務所を構えていました。
1988年にシャヒーンが一線から引退したと同時に会社もその幕を閉じました。
当時はIT技術も発達していない時代だったため、シャヒーンが一代で築き上げた何万種類ものファブリックパターン、デザインの多くはデータとして残ることなく、この世から消え去っています。
わずかながら家族が当時のパターンをデータに取り入れ残し、それらは現在ライセンス提供をしていますが、当時のショップ、事務所、工場すべては跡形なく消えてしまいました。
今日、シャヒーンのアロハシャツ、パレオ、そしてサンドレスは、ヴィンテージハワイアナコレクションの中で最も貴重な作品の一部となっています。シャヒーンのオリジナルラベルはアルフレッド·シャヒーン、シャヒーンズ・オブ・ホノルル、サーフ&サンド、キイラニ、そしてビルマゴールドハンドプリントです。
シャヒーンはオリジナルのファブリックをハワイでデザイン、製造して、出来上がった生地から洋服を作る唯一のハワイのメーカーでしたが、これらのファブリックを使い、Andrades, McInerny, Liberty House, and Waltah Clarkeなどハワイ州や米国本土の小売店メーカー向けの洋服も制作していました。
多くの人に愛され続けたシャヒーンのハンドプリントは、世界中に向けてハワイを代表した商品でもあり、世界に向けてハワイのアパレルを認知させた最初の商品でもあり、その功績と彼の偉業はハワイの歴史の一部になりました。
●Life and Legacy●アルフレッド・シャヒーン年譜
1922年
米国ニュージャージー州クランフォードで父ジョージ、母メアリー・シャヒーンの元に生まれる。
1938年
ニュージャージー州、カリフォルニア州での生活を経て家族でハワイに移住。移住翌年、シャヒーンはカリフォルニア州のウィティアーカレッジに入学。
1940年代
戦争のため米国陸軍に徴収され戦闘機のパイロットに従事。第二次世界大戦中、ヨーロピアンミッションで85部隊を指揮。
1945年
ハワイに戻り家族が営むカスタムウェア事業を手伝う。
1948年
シャヒーンズ・オブ・ホノルル、サーフ&サンドを設立。アメリア・アッシュと結婚。
1949年
大量生産向けのテキスタイル印刷機器を工場に導入。
1950年
サーフ&サンド・ハンドプリント工場と7500スクエアフィートに及ぶ広大な製造工場をワイキキ近くに建設。オリジナルデザインとテキスタイルの印刷、製造を開始。
1951年
デザイナーを起用し、オリジナルプリントの製造を増強。ファッションモデルも専属で養成しプロモーションに努める。ファブリック製造機器は1分間に8ヤードのスピードを誇っていた。
1955年
この年までに工場では300万着を超える洋服を製造。その多くは米国本土に流通された。シャヒーンの生地やスタイルは米国本土で幅広く販売され、米国以外の海外とも取引をしていた。
1956年
元のサーフ&サンズ工場を閉鎖して、ワイキキのカラカウア通り沿いに新しい工場を建設。
1958年
この年までにハワイにおけるシャヒーンの直営店は12店舗以上に増えていた。この後2年もしない内に、香港の縫製工場と契約を結び、真鍮のベルトバックルや、ブロケード、象牙ボタンなどが製造ラインに加えられた。
1965年
ロスアンジェルスに流通センターをオープン。この後数年間で、米国本土の主要都市でシャヒーンの洋服はショールーム展示販売され、「East meets West」(東が西に出会う時)というショップ名で米国全体にシャヒーンデザインによる洋服が流通拡大していった。
さらに「Ports 'O Call」と呼ばれるデザインを専門ブティック向けに開発。1970年代にはジュエリーやパフュームも手掛けていた。
1988年
40年に及ぶ現役デザイナーとして現役引退をし、ビジネスも幕を閉じる。
2001年
ハワイ州のKa Ahu No'eau Lifeteim Achievementを受賞。
2006年
ホノルルアドバタイザー新聞が推薦する1856年~2006年までに最もハワイに影響を与えた150人の人物の一人に選ばれる。
2008年
86歳で永眠。
(左)1961年発売エルビス・プレスリー
「ブルーハワイ」ジャケットに起用されたシャヒーンデザインのアロハシャツ
このアロハシャツの存在が、この後のシャヒーンの名声とビジネス発展に大きく貢献することになりました。
More about Shaheen ● シャヒーン関連記事
※PDFファイルで開きます。
●Los Angels TIMES:Garment Industry Pioneer(2009/01/04)英語版 | 日本語訳
●Investor's Business Daily:The Hawaiian Shirt Monarch(2009/03/05)英語版 | 日本語訳
●Time Magazine:Pioneer of the Hawaiian Shirt(2009/01/08)(フォトギャラリー)
●Honolulu Advertiser:Giant of Garment Industry(2008/12/25)英語版
●Honolulu Advertiser:Hawaii's 150 Most Important Influences(2006/07/02)英語版
●Hawaiian Paradise (米国加盟後初めて出版されたローカル雑誌でシャヒーンがフィーチャーされた記事)