シャヒーンブランド誕生の歴史

Shaheen

レバノンからハワイへ


1800年代後半〜1940年代


 アルフレッド・シャヒーン は、先祖代々、アパレル産業の起業家でレバノン系移民の一家の元、1922年1月31日、米国ニュージャージー州クランフォード出身です。 シャヒーン家は、1800年代後半にレバノンのアーバニーから米国に移住してきました。

 1902年、アルフレッドの祖父アッシャー・シャヒーン・リズカラーは、移住したニュージャージー州で  A. Shaheen & Sons社を設立し、日本から仕入れた絹糸の製糸を行う会社としてスタートしました。そして加工したシルク糸を使ってネグリジェや下着などを製造し、ニューヨークで販売していました。

 1897年、レバノン生まれのアルフレッドの父ジョージがシルク糸加工ビジネスに加わります。1909年には、ニュージャージー州クランフォードで自らもシルクを使ったアパレルビジネスを開業します。

 しかし20年後の1929年、ジョージと妻のメアリーは、土地収用のため所有地を失ってしまったため、一家はカリフォルニア州への移住を経て、最終的にハワイ州へ移住することになります。

 アルフレッドの両親、ジョージとメアリーは1938年オアフ島に移住し、アパレル産業で代々培ってきた経験と技術を生かしたビジネスをスタートさせます。2人は、シルク、錦織、レーヨンやサテン、その他の正装用ファブリックを使ってオーダーメイドの衣料品製造会社を立ち上げました。

 アルフレッドは、カリフォルニア州のウィティアカレッジに入学し、数学・物理学・工学を専攻し優秀な成績を収めるだけではなく、フットボールにも長けていました。ウィティアカレッジでは航空工学の学位を取得し卒業したのは、ちょうど第二次世界大戦に突入した時代でした。

 そのため、卒業後、陸軍航空隊へ入隊し、第二次世界大戦中、戦闘機パイロットとして、ドイツ、イタリア、フランス上空で84回の任務をこなしました。

 1945年、第二次世界大戦の終戦で、アルフレッドはオアフ島の両親の元に戻り、両親が営んでいたカスタムオーダー衣料品店を手伝うようになりました。1948年、両親のビジネスから学んだこと、シャヒーン家に代々伝わるアパレル経営の知識を元に、自らのアパレルブランドを立ち上げる決意をします。ハワイならでわのアロハシャツや女性用さんドレスなどに特化して、オリジナルプリントでオリジナルデザインによるブランドとしてスタートしました。創業当時は、ホノルルのカラーカウア通りにあったシャヒーン家の自宅の一角を使い、母親メアリーから直伝で教育を受けた4人のお針子と一緒に運営を始めました。

 この当時、ハワイ州ではテキスタイルを製造する工場が存在していなかったため、ハワイで営業するその他のアパレルメーカー同様、シャヒーンのアロハウェアも、米国本土から輸入したファブリックを使って縫製されていました。しかし、1949年から1950年にかけて、米国で勃発した港湾ストライキ、朝鮮戦争により、ハワイへのファブリック輸送が大幅に制限される事態が起こりました。

 シャヒーンは、生き残っていくためには、自分達でハワイ州でファブリックから製造する方法を見つけなければならないことを実感しました。そこで、ハワイ初のファブリック製造工場、 Surf ‘n Sand Hand Prints(サーフ&サンド ハンドプリント)を設立しました。ホノルルの郊外にあるホーネットストリート沿いに設置されたクオンセット(戦時中、兵舎や軍事設備の格納庫として使われていたかまぼこ型のプレハブ建造物)を拠点に、ハワイ州でファブリック製造をスタートさせたのです。


1950年代〜1960年代


 1952年当時、シャヒーンは、生地のプリント、染色、仕上げのための機械の設計から製造までを全て担当し、デザインから機械工学までをになっていました。設立したSurfʻn Sand Hand Printsをブランド名にして、毎月6万ヤード(約54864メートル)以上のファブリックを製造、プリント加工していました。

 1956年、新たにショールーム、オフィス、ファブリック製造工場が一つになった複合施設を800万ドル(1956年当時の円相場は1ドル360円なので、約28億8千万円相当)で建設しました。

 その後ビジネスは急速に発展し、1959年の段階で従業員は400人を超え、オリジナルブランドの洋服、オリジナルのハワイで製造されたファブリックを世界中で販売していました。さらに、ハワイ州全域で小売店チェーンを増やしてゆき、年間400万ドル以上(現在の相場で約380億ドル:日本円で5兆2千億円相当)の売り上げを実現しました。

 シャヒーンがこのような歴史的な偉業を達成できたのは、自分で生地をプリントする技術、ハワイ州でファブリック製造を実現できたからだと後年語っています。

当時のホノルル・スターブルティン(1956年4月10日火曜日号)新聞で一面にシャヒーンの新社屋、工場完成のニュースが掲載されました。


 シャヒーンのテキスタイルデザインは、ハワイ、南太平洋、アジア圏からそれぞれにインスパイアされ生み出されてきました。それぞれの地域の先住民のデザインを研究し、それらをテキスタイルデザインに応用した結果、それらはハワイを代表するプリントデザインとして一躍有名になりました。西洋的なファッションが主流だった当時のファッションやテキスタイルに、エスニックイメージを全面に出したことが爆発的ヒットにつながったのです。

 シャヒーンはテキスタイルをデザインする上で常に、民族の多様性を讃え、本物の文化的芸術をデザインに反映させ具現化させることを哲学として、その哲学を忠実に守り抜きデザインを手掛けていました。



 シャヒーンは、自らがデザインしたテキスタイルデザインをシルクスクリーンで大量生産する独自の方法を考案し、ハワイのアパレル業界に新しい縫製と生産技術を導入しました。そうして製造されたファブリックを製品化し、宣伝してゆくために尽力したのがシャヒーンの母親メアリーでした。メアリーは長年のアパレル業界での経験を活かし、社内の人材教育部門の責任者となり、デザイナー、ファブリック製造、シルクスクリーン職人、仕上げ職人、お針子さん、モデルなどを育成してゆきました。

 こうして高度な訓練を受けた人々は、アルフレッド・シャヒーンの専門職人集団、と呼ばれるようになり、1950年代から60年代にかけてシャヒーンをハワイ最大のアロハウェアメーカーに押し上げた、素晴らしい商品を作り上げてきたのです。シャヒーンの元で専門職人としての腕を磨いた従業員たちは、訓練、知識、経験を携えて、やがてハワイのアパレル業界を牽引する人々としてその後も活躍をしてゆきました。



 シャヒーンは、自らの成功は、多くの才能ある人々のおかげであると述べています。そのトップに君臨しているのが彼の母メアリーであり、彼女の従業員やシャヒーンに対する愛情、指導、精神力の強さ、素晴らしい芸術性は影の立役者としてビジネスの成功に大きく貢献してきました。

 技術職人としては、シャヒーン社の膨大な特殊染料を管理していた天才的な染料科学者でありシャヒーンの親友エドモンド・ラッツ博士、優れたテキスタイルデザイナーのロバート・サトウ、度肝を抜く才能でシャヒーン・ファッションを華やかに演出するリチャード・グッドウィン、そして独創的なシャヒーンファッションをより美しく人々を魅了するアパレルブランドとしての宣伝塔として活躍した、専属モデルであり往年の有名フラダンサー、輝く優美を備えたビバリー・ノア。さまざまな才能に溢れた人々に支えられていたのは、何よりも彼の人柄と天才的な発想力、創造力に皆が惚れ込んでいたからです。



Life and Legacy●アルフレッド・シャヒーン年譜

1922年
米国ニュージャージー州クランフォードで父ジョージ、母メアリー・シャヒーンの元に生まれる。

1938年
ニュージャージー州、カリフォルニア州での生活を経て家族でハワイに移住。移住翌年、シャヒーンはカリフォルニア州のウィティアーカレッジに入学。

1940年代
戦争のため米国陸軍に徴収され戦闘機のパイロットに従事。第二次世界大戦中、ヨーロピアンミッションで85部隊を指揮。

1945年
ハワイに戻り家族が営むカスタムウェア事業を手伝う。

1948年
シャヒーンズ・オブ・ホノルル、サーフ&サンドを設立。アメリア・アッシュと結婚。

1949年
大量生産向けのテキスタイル印刷機器を工場に導入。

1950年
サーフ&サンド・ハンドプリント工場と7500スクエアフィートに及ぶ広大な製造工場をワイキキ近くに建設。オリジナルデザインとテキスタイルの印刷、製造を開始。

1951年
デザイナーを起用し、オリジナルプリントの製造を増強。ファッションモデルも専属で養成しプロモーションに努める。ファブリック製造機器は1分間に8ヤードのスピードを誇っていた。

1955年
この年までに工場では300万着を超える洋服を製造。その多くは米国本土に流通された。シャヒーンの生地やスタイルは米国本土で幅広く販売され、米国以外の海外とも取引をしていた。

1956年
元のサーフ&サンズ工場を閉鎖して、ワイキキのカラカウア通り沿いに新しい工場を建設。

1958年
この年までにハワイにおけるシャヒーンの直営店は12店舗以上に増えていた。この後2年もしない内に、香港の縫製工場と契約を結び、真鍮のベルトバックルや、ブロケード、象牙ボタンなどが製造ラインに加えられた。

1965年
ロスアンジェルスに流通センターをオープン。この後数年間で、米国本土の主要都市でシャヒーンの洋服はショールーム展示販売され、「East meets West」(東が西に出会う時)というショップ名で米国全体にシャヒーンデザインによる洋服が流通拡大していった。さらに「Ports ‘O Call」と呼ばれるデザインを専門ブティック向けに開発。1970年代にはジュエリーやパフュームも手掛けていた。

1988年
40年に及ぶ現役デザイナーとして現役引退をし、ビジネスも幕を閉じる。

2001年
ハワイ州のKa Ahu No’eau Lifeteim Achievementを受賞。

2006年
ホノルルアドバタイザー新聞が推薦する1856年~2006年までに最もハワイに影響を与えた150人の人物の一人に選ばれる。

2008年
86歳で永眠。